寂しいということと性欲の関係ってどうなっているんだろう?なんとなく寂しいと性欲が湧く時があって、それは私だけではないと思う。
セックスが人に近づく手っ取り早い手段だというのは確かで、現に私は目の前の政治家の秘書になろうとしているという男から私の人生には登場し得なかったような知識を幾つももらった。彼は『優秀な政治家の話し方はコンビニ強盗と同じだ』という持論を語った。本当にやるという圧力を与える。要求を明確化する。余計な情報を与えない。手早く済ませる。中々面白い話だと思う。
そういう彼のセックスはこんな感じだった。
Sっ気を出して相手に言う事を聞かせる。じらしたり、軽く叩いたり言葉で責めたりする。その時相手の気持ちはわざわざ聞かない。少々無理やりだが、致命的に気分の悪い事はしない。奉仕されたいというよりは命令したい様で、私から動く事よりは私が彼の思い通りに動く事を好む。
私はそのセックスを気持ちいいと感じたり、それからその姿に愛おしさを感じたりもする。勿論これは、彼が致命的な所で私を痛がらせたり、苦しませたりしないから、だけれど。ただ話しているよりは深く知った気持ちになるし、なんとなく自分の寂しさが別のものに上書きされていくような感じもした。
肌を合わせていると暖かいし心地良い。良いことだ。その上人の事も知る事ができる。セックスをすると、セックスをした人はいろんなことを話してくれる。そう考えると、私にはセックスが寂しさを埋めるとても優秀な手段の様にも思える。
でも、現実問題として本当にセックスで寂しさが埋まるかという話があって、やっている途中は寂しいとかどうとかを考えなくなるしまあ相手と話をしてる間もそうかもしれないけれど、やりおわったら別に私は元の状態と現実的に変わっていない。それに目の前の人もずっと私と一緒にいるわけでも、いて楽しいわけでもないのだと思う。
私が彼と何を話す事ができたのだろう?というか、結局私が話を聞いてばっかりだった気もする。そういう事も多い。
目の前にいる彼の背中を見る。彼は眠っている。私は体を少し起こして枕元の電子時計を見る。ここは彼の部屋だ。他人の部屋に上がり込む機会を突然持つことが出来るのも、私たちがお互いに性欲を持っていたからだ。淡白な部屋。あからさまに勉強をしている本棚(社会・政治・経済の本ばかり)と机。高そうなテレビ台、ゲームキャラクターの小さなフィギュア。
ふと、真夜中の自分が、突然性欲に支配される時の事を思い出す。
家の中でかすかに時計の音が鳴っている(私は壁に薄い青色の壁掛け時計をつけている)。午前1時をたぶん過ぎている。その時間ぐらいになると時計を見るのが嫌なのでもう見ていない。スマホの画面を見ると目が冴えてしまうのでスマホも手元にない。ただ、目を瞑ったり目を開けたりする時間が過ぎている。冷蔵庫の低い音と遠くの換気扇の音、それから時計の音が、だんだんと心の中に、紙に水が染み込むみたいに広がる。寂しい。理由も理屈もさしてない。寂しい。ただ寂しい。
それがふと、性欲に置き換わる。自分としてはごくごく自然に、滑らかに。真夜中でもTinderはできる。私は眠るのを諦めてスマホを開く。
男の背中を見ていて、私はまた突然寒さに襲われる。男の背中にゆっくりと抱き着く。鍛えてある体。他人から見られる事を意識して作り込まれたからだ。
一時的にでも下手に寂しさが埋まると、その後一人になった時になおのこと寂しくなるというのもある。元と同じ状態というのならまだマシで、時々元より酷い寂しさになってしまうこともある。
だったら初めから一人の方がましなのかもしれない。
でも寂しいと性欲が湧く。性欲が湧くと男に会う気持ちがムクムクと湧いてくる。私は寂しさに支配されるつもりはないけれど、そういう時間はある。男の背中に触れていても安心はしない。でも聞こえてくるのは冷蔵庫の音ではなく、呼吸の音だ。耳を澄ませているとやがて彼の心臓の音まで私には聞こえてくる。